村上龍 愛と幻想のファシズム Fifteenth

 村上龍「愛と幻想のファシズム」。ゼロとはトウジ自身であると考えた時にゼロという人物はもとからこの世には存在していなかったのではないかという疑問が頭を過ぎります。

 物語の冒頭、中盤のヤマ場である北海道大雪山、そしてエンディングと、ゼロは常に死と隣り合わせにいます。ゼロには死界との境界線が見えていません。また掴み所のない一種の浮游感が常につきまとっています。ゼロこそが幻想なのではないでしょうか。幻想だからこそシステムに呑み込まれる事もなかったのです。そもそもゼロという名前、正数にも負数にも属さない、何も無い事の意味ですよね?

 物語の冒頭でトウジとキングサーモンを釣る場面、こんなに愛おしく感じる大人の男性に逢った事がありますか。この無邪気なゼロの姿は本当は記憶の中に眠る子どもの頃のトウジ自身でしょ?

 この作品、最初からトウジしかいなかったのかもしれません。